クレーマー・クレーマー
研修室に入り、受付に名前を伝えると
「高宮さんは、Bグループになります」
と受付が教えてくれた。
会場のBグループの席に行くと、6人席の中で1席だけが空いていた。
その空いた席の隣には、恰幅が良く、金髪にオールバックの髪形をしたサンドウィッチマンの伊達によく似た男が座っていた。
どうみても堅気の人間には見えない。
この席の隣だけが空いている理由がわかった。
それにしても、今の職場で働いてから数年経つが、金髪の社員を見るのは初めてだ。
社内規則で金髪は禁止されていたはず…。
社内だけの研修だと思ったが、他社からも参加できる研修なのだろうか?
派遣、あるいはアルバイトが研修を受けに来ているのだろうか?
あるいは、社長の息子や、幹部の親類なのだろうか?
様々な思惑が頭の中をグルグル回るが、結論は出ない。
下手に刺激しないように、音をたてないように恐る恐る椅子を引いて席に座った。
そして、彼を密かに伊達と名付けた。
* * *
研修の開始時間になると、壇上に二人の男女があがった。
「本日はクレーム対応研修の受講ありがとうございます。私は講師を務めます暮田と申します。」
訓練を受けたアナウンサーのような話し方をしながら、女性は丁寧に頭を下げた。
「実習を担当します、武藤と申します。本日は宜しくお願いします。」
続けて、スーツをビシッと着こなした短髪の爽やかな男性も、丁寧に頭を下げた。
「今回のクレーム対応研修は、私暮田のほうで進行と解説、武藤の方で実践演習を行う予定ですので宜しくお願いします。それでは、早速ですが各グループから1名代表者を出して下さい」
私の所属するBグループの人数は6人。知り合いはいない。
お互いに困惑している雰囲気が漂っている。
誰が主導権を握るのか様子を見ていると、伊達が「平等にジャンケンで決めましょうか?」と提案した。
見かけによらず、伊達は良いやつなのかもしれないが、Bグループの代表になった私は彼を恨んだ。
「それでは、まずはAグループ代表の方は前へどうぞ。今回は従業員に対するクレームの場面です」
実習用のテーブルの前で、Aグループ代表が立った。
そこに、武藤がつかつかと近づいていく。
「バアーン!!!!」
突然、武藤が机を激しく叩く音が研修室に響いた。
「おい、お前のところの従業員はどうなっているんだ!!」
武藤は大声で、Aグループ代表に詰め寄った。
会場が一気に静まりかえる。
Aグループ代表は、いきなりの展開に戸惑いながらも、言葉を発した。
「お客様、本日はどうなされましたか?」
「お前のところの従業員。俺の息子を万引き扱いして泣かせやがったんだよ。謝罪させろ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうなんですか?お前ふざけてんのか?」
「いえ、ふざけていません」
想定しない展開に、Aグループ代表の顔が引きつっている。
「おい、何笑ってんだよ。ふざけんじゃねえよ!」
戸惑っているところに、追い打ちをかける武藤。
「いえ、笑っていません」
「あぁ?笑っていただろうか!」
Aグループ代表は、なんとか取り繕って対応しようとするが言葉がスムーズに出てこない。
「お前、客を馬鹿にしてんのか!!」
さらにたたみかけて来る、武藤。
一方的な武藤のペースで終始罵声が研修室に響き、ようやく10分間の実践演習が終わった。
仕事でもクレームを受け、研修でもクレームを受け、二重のストレスを味わうことになるとは、誰が予想しただろう。
俺はなぜ、この研修を受けてしまったのだろうか?
申し込んだことを後悔しながら、次にBグループ代表…。
私の実践演習が始まった。
* * *
A~Dまでのグループの実技演習が終わった。
武藤のクレームに対応できた者はいない。
「いいですか皆さん、クレーム対応は相手の話を聞いて、解決策を提示する。これが基本になります」
暮田は各グループ代表の良い点と改善が必要な点を説明しながら、クレーム対応に掛かる様々な技術を教えてくれた。
今日1日で学んだことを、すぐに現場で実践するのは難しい。
経験を積みながら、クレーム対応の技術を身に着けていくしかない。
「これは、家庭でも応用できそうだな…」
伊達が、ボソッと呟いた。
ナチュラル・パニック
結婚をしてからも、私が独身の時から住んでいる1DKのアパートに2人で暮らしていた。
しかし、子供を授かったのを機に少し広いアパートへと引っ越すことにした。
「新しい家は、ナチュラル系のインテリアにするの」
妻は嬉しそうに、ネットから拾ってきたナチュラル系の部屋画像を毎日のように私に送ってきた。
「あなたの机はイメージに合わないから、捨ててくれない?」
妻は私が独身時代から長年愛用してきた黒い机を捨てるように迫ってきた。
「引っ越しを機に、お洒落な内装で統一しようよ」
健やかなるときも、病める時も共に過ごしてきた机…。
まだ十分に使えるのに、イメージに合わないとか、お洒落じゃないからとか、そんな理由で捨てるわけにはいかない。
「それは嫌だよ。彼はまだ頑張れるよ」
「えぇー!」
妻は不満そうな顔をしたが、渋々了承してくれた。
* * *
新しいアパートに引っ越してから、妻と共に家具を買い始めた。
妻の拘りは強く、最初に訪れた1店舗目ですぐに購入することはない。
1店舗、2店舗、3店舗と回った中で気にいったものを買うため、とにかく時間がかかる。
長い時間をかけて、机や椅子等の家具は木目調で統一され、本や小物等を収納するボックスは、天然素材を使用した拘りの物で揃えられた。
妻が購入した家財はなかなか割高な価格だが、妻が嬉々として選ぶ物には何も言えない。
半分、諦めの気持ちで家財道具が揃っていくのを眺めていた。
* * *
新しいアパートに引っ越して数か月が過ぎた。
季節は春から夏に変わり、気温も暖かくなってきている。
「最近、虫が多くない?」
妻が不機嫌そうな顔で呟いた。
「古いアパートだから、虫くらいいるさ」
「小さい虫が飛んでるんだよね」
「生ごみとかが原因じゃない?早めに捨てるようにしようか」
「うーん、わかった」
妻はあまり納得していない顔をしていた。
~ 2週間後 ~
「やっぱり虫がいるよ、ほら」
妻に言われて、畳を見ると確かに小さい虫が数匹動いていた。
「ここにも、ここにも。ほら」
机の上や、パソコン、本や書類等、よく見ると様々な場所で小さい虫が動いていた。
「ホントだ、なんだこれ」
「寝室の布団にもいるのよ、もう嫌!!」
妻は若干パニックを起こしながら、早口で私をまくし立てた。
「こんなに虫がいたら、子供が心配だわ。実家に帰ろうかしら」
「夏だから虫が増えてるだけじゃないの?」
「私は虫が嫌いなのよ!!」
妻は怒ったような口調で私に言い放った。
「ちょっと、原因を探してみるよ」
私は部屋の中を四つん這いではい回り、虫が大量に発生している場所を探した。
プラスチック製のパソコンや、無機質な黒いテーブルにまで虫が動き回っている。
虫の餌が無い、居心地が悪いところにまでこれだけ大量に発生しているということは、何か原因があるはずだ。
どこかに巣があるんじゃないのか?
注意深く部屋の中を見ると、木や布を網目状に編んで作られた収納ボックスが目についた。
「原因が分かった…」
振り返って妻に伝えると、妻はすでに泣きそうな顔になっている。
「原因って?」
「これだよ」
妻に原因となる収納ボックスを指さした。
「近くでみてごらん」
間近で見ると、そこには網目の中を這うように、大量の虫が蠢いていた。
「えっ、何これ気持ち悪い」
「天然素材で作られているからね。虫たちにとっては住みやすい場所なんじゃないかな」
「いや、もうこれ使えない。すぐ捨てて!」
そういうと妻はゴミ袋を持ってきて、私に手渡した。
* * *
原因となる収納ボックスを全てゴミ袋に入れ、すぐに代わりの箱を買いにいくことになった。
「はぁ~、あの箱高かったのにな。はぁ~」
妻は助手席でずっとため息をついている。
お店に着くと、すぐに収納ボックスのコーナーに向かった。
コーナーには、プラスチック製のボックスと木製のボックスの両方が置かれている。
「デザインはどうでもいい。虫がつかないやつで」
妻はブツブツ言いながら、すぐにプラスチック製の収納ボックスをカートに入れた。
ベイビー・トレーニング
壁に掛けられた時計を見ると、針は丁度夜の12時を指していた。
職場に残っているのは私1人。
「そろそろ、帰るか…」
窓や扉の鍵を閉めて、会社を後にした。
* * *
家の扉を開けると、妻が息子を抱いて待っていた。
「お帰りなさい、ご飯用意するね」
そう言うと妻は息子を私に預けた。
私が息子を抱いた瞬間
「ふんぎゃあ、ふんぎゃあ」
突然大声で泣き始めた。
「えっ、お父さんだよ」
「ふんぎゃー、ふんぎゃー」
息子は腕と足をジタバタさせながら暴れている。
落とさないように必死で抑えながら、抱きしめ続けた。
* * *
「なぜ、息子は俺を嫌がるのだろうか」
用意してくれた夕飯を食べながら、向かいに座る妻に尋ねた。
妻の腕の中で、息子は気持ちよさそうに寝ている。
「抱き慣れてないから、あなたの緊張感が伝わっているんじゃないの?」
「そうか、出来る限り抱くようにするよ」
それからというもの、出来る限り息子を抱くことを心掛けた。
家に帰った時、げっぷを出させる時、夜泣きをする時…
たくさん抱いたが、なかなか母親が抱く時のように落ち着いてくれない。
私が抱くとどうしても、手足をバタバタさせて暴れることが多い。
それでも、頑張って抱き続けた。
~ 3ヶ月後 ~
風呂上がりに、裸で鏡の前に立つ。
「ん?腕が太くなっている?」
腕が以前より逞しくなったように見える。
目線を下に落とすと、腹筋が割れてきているようにも見える。
体重が増えていることには気付いていた。
連日の残業に伴う、深夜の夕食が原因だとばかり思っていた。
これは、まさか…
息子に体を鍛えられている?
産まれた時に3キロ程度だった息子も今では6キロ。
私に気付かれないように、自然に負荷かけてきていた?
さらに、身体をジタバタさせることで、私の体幹も鍛えていた?
「君の仕業なのかい?」
息子に話しかけると、にやりと微笑んだように見えた。
これから先、息子の体重はどんどん増えていくだろう。
彼の成長と共に、私の身体も鍛えられていく。
息子を抱いた後は、裸で鏡の前に立つのが日課となった。
鏡が未来を写してくれるなら、鍛えられた上腕二頭筋と割れた腹筋を見せてくれるだろう。